私たちが生きる世界は、目に見えるものと見えないものが絶妙に絡み合って成り立っている。手に触れることができる「タンジブル(有形)」なものと、形を持たない「インタンジブル(無形)」なもの。この二つの関係を理解する鍵が、「科学がタンジブル、文化がインタンジブル」という視点にある。
科学と文化、それぞれの本質
科学の本質は、必ず「タンジブル(有形)」な成果として結実することにある。どれほど理論的で抽象的な研究であっても、最終的には触れることができ、測定可能な形で現れる。一方で文化の本質は、形を持たない「インタンジブル(無形)」な価値の創造にある。物語、美意識、意味、価値観—これらはすべて概念として存在し、人の心の中で育まれるものだ。
この二つは対立するものではない。むしろ、互いを必要とし合う関係にある。科学は文化という魂を宿すための「器」を提供し、文化は科学という器に「意味」を与える。
身近な三つの事例から見える構造
白鞘制作に見る技術と美意識
私の弟は白鞘を作る職人だ。白鞘とは、日本刀を保管するための木製の鞘のことで、装飾を一切排した実用本位の道具である。
この作業を見ていると、タンジブルとインタンジブルの融合を目の当たりにする。精密な木工技術、刀身を完璧に保護する機能性、ミリ単位で測定される精度—これらはすべて科学的で、タンジブルな要素だ。
しかし、白鞘の真の価値は、そこに宿る「隠す美しさ」という日本の美意識にある。装飾のない素木の美しさ、機能美の追求、「用の美」という概念—これらはインタンジブルな文化的価値そのものだ。
作られる白鞘は、科学技術という器に、日本の美意識という魂が宿った存在なのである。
絵画に込められた物質と魂
私の叔父は絵を描く。キャンバスに絵具を重ねていく行為を見ていると、ここにもタンジブルとインタンジブルの対話がある。
顔料の化学的性質、キャンバスの物理的特性、光の反射や色の混合—これらは科学の領域であり、タンジブルな要素だ。どの絵具がどのような発色をするか、どの技法が長期保存に適しているか。これらはすべて測定可能で、再現可能な技術的知識に基づいている。
しかし、作品の本当の価値は、そこに込められた想い、鑑賞者の心に生まれる感動、時代を超えた共感という、インタンジブルな文化的体験にある。
完成した絵画は、科学技術という基盤の上に、人間の魂という文化的価値が宿った作品なのだ。
生成AIとの創造的対話
私自身の体験として、生成AIとの対話にも同じ構造を見出している。
AIのデータ処理能力、アルゴリズムの精密さ、画面に表示される文字—これらはタンジブルな科学技術の産物だ。計算可能で、再現可能で、測定できる世界に属している。
しかし、AIとの対話で本当に価値があるのは、そこで生まれる洞察、新たな価値の創造、人間とAIの間に築かれる信頼関係という、インタンジブルな文化的体験だ。
AIを「参謀」と呼ぶのも、技術的な機能を評価しているからではない。共に考え、共に創造するという、文化的な関係性に価値を見出しているからだ。
この視点がなぜ重要なのか
「科学=タンジブル、文化=インタンジブル」という理解は、私たちが真の価値を見極める眼を養う。
現代社会では、測定可能で目に見えるタンジブルな成果ばかりに注目が集まりがちだ。しかし、そこに宿るインタンジブルな文化的価値を見失えば、私たちは魂のない世界に生きることになる。
逆に、インタンジブルな理想や価値観だけを語って、それを現実に表現するタンジブルな手段を軽視すれば、単なる空論に終わってしまう。
両者の調和こそが、豊かな人生と社会を創り出す。
文化財制度が証明する普遍性
実は、この「タンジブル」と「インタンジブル」という区分は、人類共通の認識として既に制度化されている。「有形文化財(Tangible Cultural Properties)」と「無形文化財(Intangible Cultural Properties)」という分類がそれだ。
有形文化財は建造物、絵画、彫刻、工芸品など、具体的な形を持つ文化財を指す。無形文化財は演劇、音楽、工芸技術など、形はないが人間の技や営みによって体現される文化財のことだ。
この制度の存在は、私たちの直感的な理解が正しいことを証明している。人類は古くから、目に見えるものと見えないもの、両方に価値を見出し、両方を保護すべきものとして認識してきたのだ。
魂の宿る場所を見つける眼
科学技術が飛躍的に発達した現代だからこそ、その「器」に宿る文化的価値を意識することが重要になっている。
私たちは皆、魂の宿る場所を見つける眼を持っている。白鞘を見れば、そこに宿る美意識を感じ取れる。絵画を見れば、込められた想いを受け取れる。AIとの対話では、新たな創造の喜びを味わえる。
タンジブルな成果の向こうに、インタンジブルな豊かさを見つける眼。それに気づくか気づかないか、ただそれだけの違いが、私たちの人生の質を大きく左右するのかもしれない。