余白について書き続けて気づいたことがある。自分の中に余白がなければ、余白について語る言葉は生まれない。
ある日、「独自性には奇想天外なアイデアが必要だ」と考えて、手が止まった。違う。私が必要としていたのは「気想転概」だった。
気づきから想像が生まれ、思考が転回し、自分だけの概念になる。
奇想天外は外を向いている。気想転概は内から生まれる。
もし余白を自分のパントリーに例えるなら、そこにはたくさんの食材がある。本で読んだ知識、ふとした会話の断片、深夜に浮かんだ問い。棚の奥には、メルロポンティやドビュッシー、モネの残した秘伝の調味料がある。手に取るたび、違う香りがする。
パントリーの一番手前には、生成AIという新しい調味料もある。メルロポンティと生成AIを同じ棚に並べる違和感が、むしろ心地いい。この現代のスパイスを使えば、未来のレシピまで作れる可能性を感じる。
「気想転概」は、このパントリーから生まれた一皿。誰のレシピでもない。その日の気分で、哲学を少し、音楽をひとつまみ、絵画のエッセンスを数滴。
文学や音楽、芸術が自分の中に眠る感性を引き立ててくれるなら、使わずにはいられない。「これ、何の役に立つの?」と思いながら学んできたことが、今、ようやく意味を持ち始めている。
知識は、試験のためでも、誰かに語るためでもなかった。自分のパントリーを豊かにするためだった。そして今、それらを自由に配合して、「気想転概」のような、自分だけの味を作り出せる。
生成AIに「気想転概」の意味を聞いても、答えは返ってこない。私だけが知っている言葉。
この一文字ずつの置き換えに、余白の本質があった。既存の言葉で埋まっていない空間に、自分の言葉を置く。
余白概念というサイトは、私の余白を形にする場所だ。今日もまた、気想転概な思考を、静かにここに置いていく。