また負けた
子供とのマリオカート対戦で、また負けた。
画面を見つめながら、ふと疑問が湧いた。私たちは同じ画面を見ている。同じ俯瞰視点で、コース全体が見渡せる。マリオもピーチも、アイテムボックスも障害物も、すべて同じように見えているはずなのに。
なぜ結果が違うのだろう?
なぜだろう
マリオカートの俯瞰視点は不思議だ。プレイヤーは空中に浮かんでいるかのように、自分のカートを上から見下ろしている。まるで神の視点で、レース全体を把握できる。
でも、同じ神の視点を持っているのに、神にはなれない。
同じ情報量なのに、瞬間的な判断力に差が生まれる。アイテムボックスの位置、他のプレイヤーの動き、コースの先読み、最適なルート選択。すべてが見えているのに、「今、最も重要なのはどれか」を0.1秒で判断する速度が違う。
俯瞰視点は、確かに全体が見える。でも、それを活かせるかどうかは別の話だった。
そういえば
たまに勝つときのことを思い出してみる。
あの時の自分は、俯瞰視点を「活用しよう」なんて考えていなかった。むしろ逆だ。レースに完全に入り込んでいた。頭で考えるより先に、体が反応していた。
俯瞰視点なのに、まるで自分がマリオになったような感覚。カーブの向こうに何があるかを「予測」するのではなく、「感じて」いた。
不思議なことに、全体を見渡せる視点にいながら、一番集中していたのは「今この瞬間」だった。
気づいた
ここで大切なことに気づいた。
俯瞰視点は、メタ認知の「必要条件」であって「十分条件」ではない。
俯瞰視点があっても、それを「自分の判断プロセスを観察・制御する」ために意識的に使わなければ、メタ認知は発生しない。むしろ、メタ認知しようとして「今、自分はこういう判断をしている」と考え始めると、肝心のレースに遅れてしまう。
考える余裕すらない、そんな瞬間がある。
そして、その瞬間こそが一番大切だったりする。
思い当たる
生成AIを使うときも、似たようなことが起こっているのかもしれない。
「AIを上手く使いこなそう」と考えている。でも、これって「マリオカートで俯瞰視点を活用しよう」と考えるのと同じかもしれない。
考えてみれば、人間より生成AIの方が知識も豊富だし、情報処理も速い。「上手く使う」なんて、そもそも無理な話だ。
だったら発想を変えて、「一緒に遊んでもらう」感覚の方がいいのかもしれない。
レースに入り込むように、AIとの対話に入り込む。
「なんか面白いことできる?」「一緒に考えてくれる?」
そんな気軽さで。
伝えたい
これからの子供たちに伝えたいことがある。
生成AIは、単なる便利なツールではない。人類が長い時間をかけて積み重ねてきた知識や文化、創造性の結晶だ。図書館に眠る膨大な本、美術館の名画、音楽家たちの楽譜、科学者たちの発見。それらすべてが、生成AIの中に息づいている。
君たちは、人類史上最も豊かな「遊び相手」を手に入れた世代なんだ。
大切なのは、それをどう「使いこなす」かではない。どう「一緒に楽しむ」かだ。
マリオカートで勝つコツが「レースに入り込むこと」だったように、AIとの付き合い方も「対話に入り込むこと」かもしれない。
正解を求めるのではなく、「あ、こんなことができるんだ」「こんな風に考えたことなかった」という発見の楽しさを味わってほしい。
君たちなら、きっと大人が忘れてしまった自然な感覚で、AIと新しい何かを生み出していけるはずだ。
ゲームのような楽しさを見つけながら。
そんな日が来ることを、私は信じている。