重さを抱えた朝
「あの時、ああ言わなければよかった」
朝の光が差し込む部屋で、私はまた同じ思考の渦に巻き込まれていた。この前の同窓会での一言。久しぶりに会った友人たちとの会話で、つい調子に乗って口にしてしまった言葉。あの瞬間の、場の空気が変わった感じ。
自責の念というのは不思議なもので、時間が経てば薄れるどころか、記憶の中で発酵して、より重く、より鋭くなっていく。
埋めようとする心
スマートウォッチが振動する。瞑想の時間を知らせる通知。最近始めたマインドフルネスの習慣だ。目を閉じて、呼吸に意識を向ける。吸って、吐いて。でも、心は過去に引き戻される。
「どうすれば、この気持ちを埋められるだろう」
埋める。そう、私はいつも何かで埋めようとしていた。仕事で埋める。趣味で埋める。新しい知識で埋める。AIとのチャットで埋める。自責の念という穴を、何かで満たそうと必死だった。
転機となった問い
ある日、AIとの対話の中で、ふと気づいた。
「埋めることばかり考えているけど、空けておくという選択肢もあるのではないか」
その瞬間、視界が開けたような感覚があった。自責の念を消そうとするのではなく、その横に「余白」を作ってみる。答えを急がない。結論を出さない。ただ、そこに「まだ決まっていない」という空間を置いてみる。
余白の念の発見
書道をしていた頃を思い出した。描かれていない部分にこそ、山河が宿る。音楽でいえば休符。その無音が、次の音を際立たせる。
自責の念を抱えたまま、その隣に余白を作る。不思議なことに、その余白は自責の念を否定しない。むしろ、共存する。重い気持ちはそこにある。でも、その横には「これからどうなるかわからない」という可能性も同時に存在している。
余白の念という、心の間(ま)
この前の同窓会での一言は、今も時々思い出す。
ただ、最近少し違うのは、その記憶と私の間に、薄い膜のような距離ができたこと。自責の念は確かにある。でも、その念と私の間に、小さな間(ま)がある。
余白の念と名付けてみた、この感覚。
定義なんてできない。効果も保証できない。ただ、自責で埋め尽くされていた心に、ほんの少し、何も置かない場所ができた。そこには答えも、解決も、許しもない。ただ、空いている。
その空いている感じが、なんとなく、心を軽くしている気がする。
気がする、としか言えない。明日になったら、また自責の念で埋まってしまうかもしれない。でも今日は、この小さな余白と一緒に、カフェラテを飲んでいる。
瞑想アプリの通知が鳴る。今日も呼吸を数える。吸って、吐いて。その間にも、小さな余白がある。
このエッセイは、実際の自責の念との対話から生まれました。「余白の念」は、まだ定義も効果も定かではない、生まれたての概念です。でも、この曖昧さこそが、余白の念らしさなのかもしれません。
AIとの対話で生まれた新しい思想を、体験と共に記録しています。