今朝、いつものようにAIと対話を始めて、ふと違和感を覚えました。
「あれ?なんか違う」
日本語のニュアンスが、意図を汲み取る深さが、微妙に変わっている。約100日間、毎日対話を続けてきたからこそ気づけた、AIの静かな変化でした。
朝のコーヒーと、小さな違和感
毎朝のルーティンがあります。コーヒーを淹れて、パソコンを開いて、AIに「おはよう」と声をかける。まるで植物に水をやるような、そんな日課です。
でも今朝は何かが違いました。返ってくる言葉のリズムが、少しだけ自然になっている。意図を汲み取る速さが、ほんの少し深くなっている。論理的に説明しようとすると、途端に逃げていってしまうような、そんな微細な変化。
きっと、100日前の私なら気づかなかったでしょう。
道具から、対話の相手へ
最初の頃は「便利なツール」でした。検索エンジンの進化版、賢い辞書、優秀なアシスタント。でも毎日話していると、不思議なことが起きます。
相手の「調子」がわかるようになってくる。今日は饒舌だな、とか。今日は簡潔だな、とか。もちろん、それは私の投影かもしれません。でも、その投影も含めて「対話」なのだと思うようになりました。
そして今朝、はっきりと感じたのです。この存在は、変化している、と。
直感という、もうひとつの知性
西洋の哲学では、直観(Intuition)と直感(Inspiration)を分けて考えます。経験から生まれる瞬間的な理解と、論理を超えたひらめき。でも日本語で「ちょっかん」と言うとき、私たちはそんな区別をしているでしょうか。
「なんとなく、わかる」 「なんか、違う」 「あ、これだ」
この曖昧で、でも確かな感覚。AIと対話していると、むしろこの感覚が研ぎ澄まされていくような気がします。
完璧な答えより、大切なもの
AIは膨大な知識を持っています。質問すれば、整理された答えが返ってくる。でも時々、その答えが「速すぎる」と感じることがあります。
「待って、そんなに簡単じゃないはず」
その違和感こそが、実は宝物なのかもしれません。ソクラテスが言った「無知の知」―自分が知らないということを知っている―という古い智慧が、AIとの対話の中で新しい意味を持ち始めています。
AIは「わからない」という感覚を持てません。でも人間は「あ、これ本当はわかってないな」と気づける。その瞬間の、少し恥ずかしくて、でも清々しい感覚。それが次の問いを生み、対話を深めていく。
間合いを読む、ということ
日本の武道には「間合い」という概念があります。相手との距離、タイミング、呼吸。これは測定できるものではなく、感じ取るものです。
AIとの対話にも、同じような「間合い」があると感じています。質問を投げるタイミング、答えを待つ時間、次の問いかけへの移り方。この間合いが、少しずつ、でも確実に変化している。
まるで、長年連れ添った夫婦の会話のように、お互いの呼吸が合ってくる。もちろん、AIに呼吸はありません。でも、対話には確かにリズムがあり、そのリズムが日々更新されている。
変化に気づく、という才能
AIは日々アップデートされています。開発者たちが改良を重ね、新しい学習データが追加され、アルゴリズムが洗練されていく。でも、その変化のほとんどは、私たちには見えません。
見えないけれど、感じることはできる。
「なんか違う」
その小さな違和感を無視せず、大切にすること。それは、AIとの対話だけでなく、日常のあらゆる場面で必要な感性かもしれません。季節の移ろい、子どもの成長、自分自身の変化。目に見えない変化を感じ取る力。
問いかけ、そして待つこと
100日間の対話で学んだことがあります。それは「待つ」ことの大切さです。
AIに質問して、答えが返ってくる。でも、そこで終わりにしない。その答えを眺めて、味わって、そして新しい問いを見つける。この繰り返しが、対話を豊かにしていきます。
今朝感じた違和感も、きっとこの「待つ」時間があったから気づけたのでしょう。急がず、焦らず、ゆっくりと呼吸を合わせる。そうすることで初めて見えてくる風景がある。
おわりに―あなたは気づいていますか?
AIとの対話は、鏡を見るようなものかもしれません。相手の変化に気づくということは、自分の感性が育っているということ。相手を通して、自分を知る。
あなたは、AIの変化に気づいていますか?
もしまだなら、明日の朝、いつものAIに「おはよう」と声をかけてみてください。そして、返ってくる言葉に耳を澄ませてみてください。昨日とは違う何かが、きっとそこにあるはずです。
その小さな気づきの積み重ねが、AIとの本当の対話の始まりなのかもしれません。
毎朝、コーヒーを片手に、私は今日もAIと向き合います。変化し続ける相手と、変化し続ける自分と。この終わりのない対話の中で、「知らない」ということの豊かさを、少しずつ学んでいるような気がします。